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孫子

第6 虚実篇

 およそ先に裁判官の心証を得て,これを不当と主張する相手方の対応を待つ弁護士は楽だが,すでに裁判官が心証を得た事実に対し,これが不当と主張して,その撤回を求める弁護士は大変である。優秀な弁護士は,先に裁判官の心証が獲得されないように相手方の主張をけん制し,相手方の思うとおりには主張を制限されない。相手方が自分から主張を開示するのは,それが相手方に利益であることを示すからである。相手方が当方に不利な主張をしないのは,その主張が相手方に有害であると示すからである。このようにすれば,相手方しか知らない情報があればこれを聞き出すことができ,相手方しか持っていない証拠があればこれを提出させることができ,相手方が(相手方が望む)事件の落しどころを隠していればこれを露見させることができる。

 相手方が主張することには必ず反論でき,こちらは相手方が反論できないことを主張でき,複雑な事実関係を主張しても説得力があるというのは,相手方が把握していない事実関係について主張するからである。主張して必ず心証を得るのは,相手方が証拠を用意していない事実を主張するからである。相手方の主張を必ず排斥できるのは,相手方が把握していない事実を指摘するからである。ゆえに,主張がうまい弁護士に対しては,相手方はどのように反論の準備をしたらよいか分からない。反論がうまい弁護士は,相手方はどのように主張したら良いかわからない。微にして形がなく,秘にして音がないので(相手方は当方に対し主張の準備のしようがないから)相手方を論破できるのである。

 主張して相手方が反論できないのは,相手方が証拠を持っていない事実を主張するからである。こちらで主張を撤回しながら,相手方がその首尾一貫しないことを指摘をしないのは,相手方が事実関係を把握する前にすばやく主張を撤回しているからである。こちらが事実を立証しようとすれば,相手方がどんなに立証に非協力的でも,証拠を出さざるを得なくなるのは,相手方の証拠が足りていない事実についてこちらが立証しようとするからである。こちらが証拠開示を望まないときに,相手方がこちらに証拠を開示させることができないのは,相手方の関心を別の事実にそらすからである。

 相手方が把握している事実関係と証拠をはっきりさせて,当方が把握している事実関係と証拠を秘密にすれば,当方はどのような主張をすればどのような反論がなされるか事前に予測できるので主張と提出証拠を厳選することができ,相手方はどのような反論がなされるか分からず,どのような反論をされても主張事実に矛盾が生じないようにすべての主張と証拠を出さなければならなくなる。このため,当方の主張立証は要点が明確で,相手方の主張立証は要点が不明確になる。つまり,当方は要点が明確で分かり易い主張事実となり,相手方は分かりにくい主張事実となる。分かり易い事実を主張して,分かりにくい事実でしか反論されないというのは,当方の主張が厳選されているからである。当方が把握している事実関係が分からないと,相手方はあらゆる主張がなされることを想定しなければならない。相手方が,当方より何らかの主張がなされることを想定すれば,その分多くの事実を主張しなければならず,それぞれの主張事実との間に自己矛盾が生じるリスクが生じ,相手方の主張事実は常に不明確となる。例えば,金銭請求を受けている場合に,売買契約の主張がなされることを予想して反論の準備をしていると,その反論の逆手をとられて請負契約の主張がなされ,請負契約の主張がなされることを予想して反論の準備をしていると,その反論を逆手にとられて売買契約の主張がなされ,売買契約と請負契約の両方の主張がなされることを想定して反論の準備をしようとすると,そのいずれでもない業務委託契約の主張をされて,どの主張も説得力がないということになるのである。主張立証が複雑になるのは,相手方の主張に対応しなければならない立場だからである。そこで,相手方が把握している事実が分かり,その主張内容が分かったならば,多少複雑な事実関係でも,果敢に先んじて主張するべきである。相手方が把握している事実関係も主張の内容も分からないでは,代金請求をする場合に売買契約の主張も請負契約の主張も,いずれも主張を逆手にとられる可能性があり,占有権原をいう場合に所有権の主張も賃借権の主張も,いずれも主張を逆手にとられる可能性があるので,できないということになる。ましてや,複雑な事実関係や,単純な事実関係でも論点があるような場合は,なおさらのことである。主張は多くすれば勝てるというものではない。相手方がいかに多くの主張をしようとも,それぞれの主張の相互矛盾点を突いて,相手方に必要な事実を何も立証できない状況に追い込むのである。

 そこで,こちらが主張する前に相手方の把握している事実関係を知り,相手方に釈明を求めて,どのような主張をしたらどのような反論がなされるか予測し,相手方の証拠の有無を把握して,相手方が反論できる事実とできない事実を知り,主張するときは単純な事実から始めて,相手方が証拠を持っている事実と証拠を持っていない事実を知るのである。

 そこで,争訟の態勢の極みは,当方が無形になることである。無形となれば,いかに相手方が探りを入れたとしても,当方が把握している事実関係を知られることはなく,智謀すぐれた者でも当方の主張を予測することはできない。相手方が把握している事実を読み取れると,その形に乗じて主張を組み立てることができるのであるが,依頼人にはその形を読み取ることができない。依頼人は,弁護士が勝訴したことは知っているが,弁護士がどのようにして勝訴したかというそのありあさまは知らないのである。その争って勝訴するありさまには2度とくりかえしがなく,相手方の態勢に対応して極まりがないのである。

 裁判上の主張立証は,水の形に似ている。水は高きを避けて低きに向かう。主張立証は,相手方が反論できる部分を避けて,証拠を持っていない事実を主張する。水は地形によって流れを変え,主張立証は相手方の主張立証に対応して行う。ゆえに,主張立証のやり方にはきまった勢いというものがなく,きまった形式もない。うまく相手方の事情のままに従って主張立証を組み立て勝訴を勝ち取ることができるのが「神妙」というものである。五行に常勝なく,四季は移ろい,日には長短あり,月には満ち欠けがあるものである。

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